「私の履歴書」(私の英語人生)
日本経済新聞の最後のページに、「私の履歴書」というコーナーがありますが、ここでは、私の英語人生についてお話させていただきたいと思います。
【少年期】
私は、1947年4月6日に静岡県富士市に生まれました。いわゆる団塊の世代の中でも一番人数の多い年代組です。
当時、私の父は本州製紙(現在の王子製紙)の富士工場に勤務していたので、その関係で、「静岡県人」になったというわけです。
私が小学校にあがる前に、父は岐阜県中津川市に転勤となり、小学校6年の春まで自然豊かな中津川市で幼少期を過ごすことになりました。
私が通っていた市立南小学校の校歌を今でも覚えています。
♪朝日に夕日にそびえつつ
みそらに微笑む恵那の峰
我らに諭すは教うるは
強かれ清かれ正しかれ
♪行方も遥けく流れ行く
夜昼分かたぬ木曽の水
我らに諭すは教うるは
強かれ清かれ正しかれ
下記は、現在の南小学校のURLです。
http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/kyouiku/minamies/
校門の横には、二宮金次郎の銅像がありました。
♪ 二宮金次郎 (文部省唱歌) ♪
一、
柴刈り、繩なひ、草鞋をつくり、
親の手を助け、弟を世話し、
兄弟仲よく孝行つくす、
手本は二宮金次郎。
二、
骨身を惜しまず仕事をはげみ、
夜なべ濟まして手習讀書、
せはしい中にも撓まずがく學ぶ
手本は二宮金次郎。
三、
家業大事に、費をはぶき、
少しの物をも粗末にせずに、
遂には身を立て、人をもすくふ、
手本は二宮金次郎。
二宮金次郎のように勉強したら、通訳案内士試験など一発で受かることでしょう。
毎日、川と山で、ヘビ、カエル、イモリ、フナなどと、大いに遊んだ少年時代でした。
小学校6年生の時に、父が東京本社に転勤になったので、一転、「山猿」が東京の小学校に通うようになりました。
転居先は、東京都杉並区で、場所は、井の頭線の「富士見ヶ丘」でした。
小学校は、富士見ヶ丘小学校という名前の学校でした。
富士見ヶ丘小学校の校歌は:
♪澄める水、青き空、朝な夕なに富士を仰ぐ。。。。。
中津川の小学校では、1学年、1クラス55名で10クラス以上あったのですが、杉並では、1クラス40名くらいでたった3クラスしかなかったのでとても驚きました。
もう一つ驚いたことは、中津川では、年に2回、田植えと稲の刈り取りの季節に各1週間くらいの「農繁休み」があったのですが、杉並ではそれがありませんでした。
田植えの頃に級友に「農繁休みはないの?」と聞いたところ、エーッといった顔をしていました。
給食のパンも、中津川ではコッペパン(冬はカチンカチンに硬くなるので、ストーブに押し付けてから食べた)だったのですが、杉並では普通の食パンでした。柔らかくて、とても美味しいパンで感激しました。
ストーブの燃料も、中津川では薪(まき)だったのですが、杉並は石炭でした。何か、未開の国から文明国にやってきたような感じがしたものでした。
中津川では、校門の近くに「二宮金次郎の銅像」があったのですが、杉並ではなかったことを覚えています。今だに理由は分かりません。
杉並に来て驚いたことの一つに、「中学受験」ということがあって、級友が時々、「模擬試験」を受けに行くことでした。私は、別に「中学受験」をする予定はなかったのですが、級友に誘われて、一度か二度「模擬試験」を受けに行ったのですが、「田舎では優等生」だった私が、全受験生の中間くらいの成績しかとれずに子供心にも大きなショックを受けました。
受験勉強なるものを一切していなかったのですから、当然と言えば当然の話なのですが。。。
【中学校時代】
中学校は受験するでもなく、家から徒歩3分の杉並区立富士見ヶ丘中学に進学しました。
そこで、初めて、英語と出会うことになりました。
教科書は、"Standard Jack and Betty" という名前で、今でも、最初のページのあたりは全て暗記しています。
I am a boy.
I am Jack.
I am Jack Jones.
I am a girl.
I am Betty.
I am Betty Smith.
今では考えられないことだと思いますが、何と、この本はイギリス英語でした。
ですから、「あなたは本を持っていますか?」「はい、持っています」は、
"Have you a book?" "Yes, I have."
と教わりました。
ところが、中学2年の2学期になると、突然、教科書が変更され、一転、アメリカ英語を習うことになりました。
つまり、上記の「あなたは本を持っていますか?」「はい、持っています」は、
"Do you have a book?" "Yes, I do."
となりました。
子供心にも、「こりゃ、何のこっちゃ??」と思ったものでしたが、遠因をたどれば、第二次世界大戦で米国に負け、米国の同盟国となった日本の宿命と知るには少し時間が必要でした。
富士見ヶ丘中学校のURL:
http://www.suginami-school.ed.jp/fujimigaokachu/
モーニング娘。のメンバーの何とかちゃんの出身校でもあるらしいです。
中学校1年の秋の頃、英語担当の先生が私に「クリスマスに『キリストの生誕』という英語劇をするのだが、英語部の部員では人数が足りないので、植山君にも出て欲しい。」という依頼を受けました。
「植山君にも出て欲しい。」のウラには、当然、「(英語が得意な)植山君にも出て欲しい。」という意味があるわけですから、私は二つ返事で、「はい、やらせていただきます。」とお答えしました。
ところが、英語劇のキャスティングを聞いてビックリ。
私は、預言者ヨハネ、宿屋の主人など4役を一人でやることになっていました。
エーイ、ここは、乗りかかった船ですから、持ち前の<前向き思考>で頑張ることにしました。
今でも、ヨハネの台詞を覚えています。。。
講堂のグランドピアノの黒と赤の厚地のカバーで身体をグルグル巻きにして(これが結構重かった!)
"They call me John, the Baptist. God will send his only son to us to free us..."
このときに、人前で英語を話す快感を覚えたので、以後、高校時代に英語劇とスピーチコンテストなどに積極的に出ることになりました。
この貴重な機会を与えて下さった津田塾大学出身のバリバリの須々木(綾子)先生は、まもなくフルブライト留学生として米国に行ってしまいましたが、後に、青山学院大学の英文科の教授になられました。
須々木先生に最初に英語を教えていただいたことが、私が英語を学ぶ面白さを知る機会になったと思います。先生には、今でも深く感謝申し上げております。
かなり以前の話ですが、須々木先生は通訳ガイド受験関係の本も執筆されておられたので、ビックリしたことがありました。
【高校時代】
中学を卒業して、東京都立西高等学校に進学しました。
入学して2日目か3日目に、突然、上級生から「オイ、植山、お前はいつ帰って来たんだ?」と質問されました。
最初は合点がいかなかったのですが、直ぐに、私の兄の同級生が、私を兄だと間違って声をかけたことに気がつきました。自分では、そんなに似ているとは思わないのですが、他人から見ると、兄弟なので同じように見えたのだと思います。
実は、兄も西高に在学していて、丁度、AFS交換留学生の制度を利用してアメリカに留学中だったのです。
中学校の時は、軟式テニス部に属していたのですが、高校に入ってからは、テニス部と英語部の二つのクラブに所属して勉強もあまりせず、クラブ活動に精を出していました。
最初は問題なかったのですが、二学期に入って、テニスの新人戦と秋の文化祭の英語劇とがバッティングしてしまい、英語劇は代役がいないので、それ以後は、テニス部をやめて英語部の活動に専念することにしました。
二年生になって、英語部の部長にもなり、高校在学中は、合計3〜4回も英語劇に出演したものでした。
普段の活動は、NHKラジオの「英会話テキスト」(松本享先生)を丸暗記して部員同士が会話をすることに徹しました。今でも、この頃覚えたフレーズが口から出てきます。
丸暗記の重要性を体得した私が、「日本的事象英文説明300選」(丸暗記決定版)を書いても、全く不思議はないのです。ハイ。
高校に入って驚いたことは、英語のリーダーが中学とは比較にならないほど難しくなったことです。
特に、英単語が分からなければどうしようもないことにすぐ気付きましたので、まず英単語をしっかり覚えようと決心しました。
私の計画は、中学校時代に使用していた英和辞書を一冊まるごと覚えてしまうということでした。
単語の数はいくつあったか分かりませんが、ともかく高校1年の終わりまでには辞書一冊を覚えきりました。これが、私のボキャブラリーの基礎になったと思います。
この頃は、勿論、青春真っ盛りで、スポーツ、山登り、英語劇なども積極的にしていましたので、必ずしも勉強の虫というわけではありませんでした。
級友たちが受験勉強に専念しているときに、大いに青春を満喫していました。。。。
高校では、英語部に所属していました。
いわゆる、ESSですが、皆、Eating Sleeping Society と言っていました。(笑)
2年生の時に、私が部長になったので、私の方針で英語の勉強をすることになりました。
使用したのは、NHKのラジオ英会話のテキストでした。
当時は、あの松本亨先生が担当しておられて、月曜から金曜まで週5回の放送だったように記憶しています。
英語部での活動は、ともかく、このテキストを丸暗記することにしました。
(このころから、丸暗記が好きだった!)
テキストは、二名の対話形式になっていましたので、部員二名がお互いを相手に暗唱練習を繰り返しました。
ともかく、暗記、暗記の1年間!
これが、大変ためになりました。
費用は、テキスト代金だけです。
英会話学校に行って、何十万円も費用を支払うくらいだったら、現在でも、NHKの英会話テキストを丸暗記した方が、断然効果があると思うのですが。。。。
英語部の卒業生は、外務省の外交官への道に進む者が多かったのですが、世界銀行で1997年から2003年まで南アジア地域担当副総裁をしていたNさん(女性)は、当時、同級生であり、かつ、英語部で一緒に活動した仲間でした。
彼女は、高校2年生でアメリカに留学して、そのままアメリカに居ついてしまい、ジョンズ・ホプキンズ大学(経済学博士課程)を卒業した才媛です。
彼女からは、英語劇などの練習をサボっていると、「植山くん、何やってるの!ちゃんとしなくちゃダメでしょ!」とよく怒られました。
自分にも厳しい方だったので、あそこまで出世されたのだと思います。脱帽!
高校3年の9月だったと思うのですが、英語のスピーチコンテストなるものに出場しました。
主催は東京武蔵野ロータリークラブで、関東地方の高校生が対象でした。
場所は、ICU(国際キリスト教大学)で、緑豊かな広々としたキャンパスが印象的でした。
参加者は、ほとんどが女子高生で、しかも私立のミッション系の生徒が多かったことを覚えています。
私のような無骨な都立の男子高校生は、ほとんどいませんでした。
彼女たちのささやきが聞こえてくるようでした。
「あそこの男子、都立らしいわよ。珍しいわね。でも、ちょっといい男よね。。。」
最後の、「ちょっといい男よね」は、私の想像ですが。。。。(笑)
何となく、肩身の狭い思いをしながら自分の出番を待っていました。
私のスピーチは、当時愛読していた William Wordsworth の詩で始まる次のようなものでした。
今でも、よく覚えています。
"The world is too much with us; late and soon,
Getting and spending, we lay waste our powers;
Little we see in Nature that is ours,
We have given our hearts away, a sordid boon!
This Sea that bares her bosom to the moon,
The winds that will be howling at all hours
And are up-gather'd now like sleeping flowers,
For this, for everything, we are out of tune. "
said Wordsworth about one century and three
quarters ago, and these words are still alive
at the present time.....
スピーチの題は、"We are not machine." で、テーマは、「大学の受験勉強も大事だけと、一度しかない青春を満喫するために、自分の好きなスポーツ、読書、受験に関係ない勉強に大いに頑張ろうぜ。俺たちは、試験勉強のための暗記の機械じゃないんだから。」といったものでした。
結果は、並み居るミッション系のお嬢様たちの中にあって、何と準優勝(2位)となり、大きな立派な盾と賞状を獲得して意気揚々として帰ってきました。
こんなことで、<青春を満喫>していたので、2年間の浪人生活を余儀なくされることになりました。
♪ 青春時代が 夢なんて 後からほのぼの 思うもの ♪
♪ 青春 時代の 真ん中は 道に迷っているばかり,..♪
都立西高校のホームページはこちら
【予備校時代】
さて、青春を謳歌してきちんと受験勉強をしなかった私は、同じ高校から約半数が<進学>する駿台予備学校に行くことになりました。
毎朝、満員電車に乗って御茶ノ水まで2年間通いましたが、この駿台予備校での鈴木長十先生との出会いが私の英語人生に重大な影響を与えることになったのです。
鈴木長十先生は、当時、駿台の英語科の筆頭格の先生で生徒の人気も絶大でした。
先生は、英文読解の指導が担当だったのですが、ほとんどの英文を文の要素に分解して解釈してゆくという方法を教えていただきました。
口癖は、「四角い括弧、丸い括弧、下線、ブルブル」でした。
名詞相当語句(主語とか目的語など)は四角い括弧で包み、副詞、副詞句、副詞節などは丸い括弧で包み、英文の構造(五文型)を視覚的に理解し易くする方法でした。
最初は少々とまどいましたが、この方法こそが英文を正しく解釈できる唯一の手段であることに気がついた私は、すべての英文をこの方法で解析してゆくことに無類の快感を感ずるようにもなりました。
ハローでの英文解釈の講義が、五文型による英文解析を基本として行われているのは、実は、私の予備校時代のこの経験がその原点にあるのでした。
【大学時代】
2年間の浪人の末、早稲田大学第一文学部に入学しました。
高校時代は、政治家を目指していたのですが、色々あって、浪人二年目は、心理学か生物学を勉強してみたいと思うようになって、文学部に進学しました。
大学入学式の日に、故あって家出をした私は、リュックサック一つとバッグ二つを持って大学に行きました。その日に泊まるところのあてもなかったのですが、当日会った同級生の下宿に転がり込んで、私の大学生活が始まりました。
手元には二千円しかなかったので、まずしなければならなかったことは、アルバイトをして生活費と学費を稼ぐことでした、
大学の近くのアルアイト斡旋業者に行って、肉体労働から始めました。
引越し、庭の石の移動、鉄道線路の工夫、めし屋の皿洗い、、、何でもしました。
学校の授業とアルバイトとで結構大変でしたが、自由の空気は何ものにも換えがたいものでした。
♪空を飛ぶ鳥のように自由に生きる。。。♪
アルバイトは塾の講師、家庭教師などの時間給のよい仕事に移行してゆきましたが、所詮、上限のある仕事です。そこで、ハロー子供英語教室という幼児、小学生を対象とした英語教室を設立して小規模ながら学校経営を始めました。
ハロー通訳アカデミーのハローは、実は、このハロー子供英語教室の名称がその起源なのです!
大学の国際部に留学中のアメリカ人の女性を、時間給千円で講師に雇って、英語をゲームと歌で勉強する方法で教えました。これが、受けて、卒業する時には、約50名の生徒と15万円の収入がありました。
私のソニーの初任給が、5万2千5百円でしたから、現在の貨幣価値で言うと約50万円〜60万円といったところでしょうか。
私はそのころから、経営の才能があったようです。(笑)
心理学を勉強しようと思って文学部に入ったのですが、直ぐに学生運動の洗礼を受け、その影響のもとで哲学に興味を抱くようになり、学生時代は専ら哲学書を読みふけっていました。
哲学書は、主にマルクスとレーニンに関するもので、1冊1冊読破するごとに新しい世界が見えてくる気がしたものです。私の唯物弁証法的な世界観はこの時期に形成されました。
ゼミの先生はバリバリの共産党員で、私の卒論は「自由について」という題で、古代ギリシャより哲学者たちは自由という概念についてどのように考えてきたのかを研究しました。
アルバイトと学生運動、それに硬式テニスクラブと5分刻みの忙しい毎日でしたが、これ以上の充実はないほど充実していた4年間の学生生活でした。
【ソニーLL英語スクール】
ハロー子供英語教室でかなりの収入があった私は、通常の就職はせずに、卒業後は近くの図書館で色々と勉強をしていました。
子供英語教室の経営だけでは世間が狭くなるような気がしてきたので、Japan Times の人事募集欄で英語を使う仕事を探しました。すると、ソニーLL英語スクールがスタッフを募集していたので、入社試験を受けて入社することになりました。
最初は、五反田勤務だったのですが、直ぐに大阪(梅田校)に転勤になり、合計3年半、ソニーに勤務することになりました。ソニーでは、LL(Lnguage Laboratory)の教師、後に、スクールマネジャーをしていました。
ソニー入社当時、私は英語の資格といえば英検2級しか持っていませんでした。私の生徒の中には、当然、英検2級を持っている方もいたので、「英検2級の先生(私)が英検2級の生徒を教える」というあまり格好のいい状態ではありませんでした。
英語プロとして、英検1級とか通訳案内士くらいの資格がなければ恥ずかしいと思った私は意を決して、英検1級と通訳案内士の資格を取るべく勉強し、25〜26歳の頃に、これらの資格に合格しました。
通訳ガイドの資格を得た後には、色々な旅行会社とか英会話学校などから転職を勧める手紙などがくるようになり、これで食いぱっくれはなくなったと思いました。
ソニーでは、他の社員の10人分くらいの働きと結果を出していましたが、それをきちんと報酬に反映されなかったので、いつしか転職を考えるようになっていました。
【住友ゴム株式会社】
そんな時、朝日新聞に住友ゴム工業(株)(ダンロップ)の英国人の副社長付き通訳、翻訳の募集が載っていたので、早速受けに行きました。
神戸本社の入社試験会場には、約150名の応募者があふれていたので、こりゃダメだと思いながら第1次筆記試験を受けたところ、30倍の難関突破で5名の合格者の中に入ってしまいました。
その後は、人事課長、人事部長、人事担当役員の面接で2名までに絞り込まれ、最後は、副社長の前で同時通訳(英語⇔日本語)の試験を受けました。そして、何と私が採用されたというわけです。
給与は、ソニー時代の二倍となり年収も当時のお金で百万円ほど増え、英語を真面目に勉強していればいいこともあるな、と思った次第でした。
住友ゴムでの仕事は、副社長が出席する会議の英文資料の作成と通訳が主で、副社長が国内に出張するときは鞄持ち兼通訳をしておりました。
海外から副社長のお客様が来たときに、祇園の茶屋に随行して高級なお料理を食べさせていただくような嬉しい機会もありました。
会議では、財務諸表に基づいた経理に関する話とかタイヤ、ゴルフボールに関する技術的な話などが多かったので、入社後半年間は、英文経理とタイヤなどの技術に関する本を徹底的に勉強しました。
入社当初に、経理担当者が副社長に「当社の減価償却法は、現在、定額法ですが来年から定率法に変更する予定です。」と言った内容を訳すことができなくて恥ずかしい思いをしたことを今でもよく覚えています。
半年くらい経ってくると仕事にも慣れ、副社長も私のことをかわいがっていただいたのですが、このような仕事を定年までずっとすることに疑問を持ち、会社には申し訳なかったのですが、退職を申し出ました。
会社は、せっかく入社したのだから、何とか1年間はいて欲しいとのお話だったので、28歳の1月5日に入社した私は、29歳の1月5日に退職することになりました。
そして、翌月の2月16日にハロー通訳アカデミーを創設しました。
(続く)