初代ドイツ帝国宰相オットー・フィン・ビスマルクの有名な言葉に「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉があります。
通訳案内士の社会的、経済的地位が何故このように貶められてきたのか。
国交省(運輸省)は何をしてきたのか。あるいは、何をしてこなかったのか。
日本のインバウンド業界を支配するJTBグループは、自社の金儲けのために、いかに巧みに通訳ガイドを支配、統制、搾取してきたのか。
JTBグループは、癒着関係にある国交省と一体となって、いかにして、日本が世界に誇る通訳案内士制度を崩壊させてきたのか。
通訳案内士の社会的、経済的地位向上を図るにしても、まず、通訳案内士の歴史を知ることから始めることが大切です。
私がこの業界と関わりを持ち始めた約40年前からは、大体のことは分かるにしても、それ以前のことになるとよく分かりません。
そこで、かなり以前から、私が尊敬する通訳案内士業界の重鎮でおられる瀬口寿一郎氏に、氏の知っておられる通訳案内士の歴史について、是非書いていただきたいと、横浜のご自宅まで押しかけてお願いしてきました。
下記において、「通訳案内士の歴史」を完成したところから、順次ご紹介させていただきますので、是非お読みいただきたいと存じます。
●皆様のご意見、ご感想、ご希望を是非お聞かせください。(瀬口氏にもお伝えします)
通訳案内士の歴史
●著者 瀬口寿一郎氏略歴
1951年、通訳案内業試験(現通訳案内士試験)(英語)合格。
免許取得(英語)以後、日本交通公社をはじめ、主要インバウンド旅行業者において、随時、フリーランスガイドとして就業した。
1963年、ドンファン・カルロス スペイン国王夫妻(新婚旅行)、1964年、世界銀行東京総会におけるエクルス米国、連邦準備銀行総裁夫妻等の国賓級VIPをはじめとして、重要団体のガイドとして豊富な就業経験を有する。
その間、中央大学法学部を卒業し、同大学院法学研究科修士課程(刑事法専攻)履修、法学修士の学位を取得する。
1990年、円高によるインバウンド業界不況のため、帝国ホテルに転就職し、管理職のDuty Managerとなる。
帝国ホテル定年退職後、神田外語キャリアーカレッジにおいて、「通訳案内業国家試験通信講座」の主任講師を勤める。
1981年6月、任意団体として「全日本通訳案内業者連盟」を設立。
1994年4月、これを国土交通大臣の認可を得て事業協同組合としての法人格を取得し、理事長に就任し、同組合の基礎を築いた。
5年間の理事長執務後は、理事として在任し、2012年末に、一身上の理由にて同組合を脱退し現在に至る。
●監修 ハロー通訳アカデミー学院長 植山源一郎
<はじめに>
我が国において、通訳案内士という職業が、その社会的な重要性から法令上、初めて正式に規定されたのは、実に1世紀以上も前の明治40年(西暦1907年)であり、その名称は「案内業者取締規則、明治40年7月内務省令第21号」というものでした。
これは観光関係法令としては我が国、最古のものであり、これが幾多の変遷を経て、現行の「通訳案内士法、最終改正、平成25年5月10日法律第12号」となったものです。
この概説では、通訳案内士(以下便宜上通称のガイドと記す)の歴史をその創設期から現在に至るまで幾つかの時代的背景を特徴として、時代区分をなし、その社会的、経済的地位にも触れて概説を試みているものです。
歴史を通観しこれを学ぶことは、現代人の素養として不可欠なものです。
従来からガイドとして就業するためには、比較的にも困難な語学関連では唯一の国家試験に合格し、あらゆる分野の国情を把握し、それなりの専門知識を具備することが要請され、殆どのガイドはそれに応えてきましたが、それにもかかわらず、その社会的、経済的な地位は漸次、低下するのみでした。
この原因は客観的にもいろいろとあり、ガイド自身の努力だけではいかんともしがたい点があった事実は否定出来ませんが、一方ではガイド自身でとるべき可能で妥当適切な対策、手段をとることを怠り自らその墓穴を掘った感が無きにしも非ずであったことも、これまた否定できない事実です。
このガイドについての歴史概説を学び、いろいろとその歴史的な意義や事実を知り、それらの評価を試みることは、今まさにその公正妥当な職業存続の正念場にあるガイドにとっては必要不可欠な重要事項です。
是非、ガイドの皆様方はもとよりこの職業に関心をお持ちの方々がこの概説から多くを学び、その職業が持つ重要な社会的意義を認識し、その地位向上、確立に資されることを衷心より期待するものです。
第1章 通訳案内士の創設期から太平洋戦争開戦まで
第1節 幕末における創設の背景、意義とその時代背景
ガイドという業務、職業は来訪外客を相手とすることから、その歴史的な起源は徳川幕府による鎖国政策が嘉永6年(1853年)のペリー来航によって廃止され、安政5年(1859年)に函館、横浜、長崎(下田は閉鎖)が開港され、それらの各地に外国人居留地が設置され、その結果として、制限付きとはいえ、外国人の国内旅行が認められることになり、ここで初めて彼らを案内するガイド業務が発生したものです。
但しその需要はごく限定的なものであり、そのガイド業務に従事することになった者は、それらの外国人の身近にいた者とか、それらの者の紹介によって、そのような外国人の要望に対応可能な最低限の外国語の知識を有していた者でした。
200余年以上も続いた鎖国政策のために、外国語を解する日本人は、ごく一部の長崎通辞のような特別な者以外には存在せず、ただ史実としては、ごく少数の漂流民でたまたま漂着した外国でその土地の言葉を習得して、幸運にも帰国を果たした者が存在していた程度でした。
それらの者の内で代表的な人物が、中浜万次郎です。
しかし、当時の国情から彼がガイドを職業としたわけではありませんが、彼がアメリカを初めて我が国へ伝え、同時に初めて我が国をアメリカへ紹介した人物であった事実は間違いありません。
ここで、簡単に中浜万次郎(1827-1898)について記しますと、もと土佐の漁師で14歳の時、出漁中に遭難したが、幸運にもアメリカの捕鯨船に救われ、その船長に才能を見込まれ、アメリカで教育を受け、帰国後の1853年、幕府に幕臣として登用され、外交文書の翻訳や通訳を務め、軍艦操練所教授をも務め、鎖国から開国に揺らぐ激動期の我が国の歴史において重要な役割を果たし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人でした。
*幕末における国情と当時の日本人の西欧体験について
嘉永6年(1853)ペリーが率いるアメリカ東インド艦隊の来航は日本人の眠りを覚ます衝撃的な事件でした。
それは当時、「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四はいで夜も寝られず」と詠われた川柳が如実に物語っています。
日本は外圧によって、鎖国の重い扉を開き、開国するに至ったわけでしたが、国内では「開国」と「攘夷」に分かれ騒然とした状況でした。
そのような状況にあっても冷静な開明派は、先ずは諸外国を知るために、使節団の派遣、使節団への強引な参加、視察の旅、留学、密航などさまざまなものでしたが、主なものとしては下記のようなものがありました。
万延元年(1860)遣米使節 (日米修好条約批准書交換のため。咸臨丸には福沢諭吉や中浜万次郎も乗り組んでいた。)
文久元年(1861)遣欧使節 (開港の延期交渉のため。福沢諭吉も参加)
文久3年(1863)英国留学 (横浜のジャーデン・マセソン商会の仲介で伊藤博文、井上薫ら密航)
文久3年(1863)遣仏使節
慶応3年(1867)遣仏使節 (パリ万国博覧会参加および将軍慶喜の弟、昭武の留学、渋沢栄一が参加)
明治4年(1871)岩倉使節団(条約改正予備交渉および欧米視察、岩倉具視以下の明治新政府のリーダーら総員46人、留学生を合わせると約100人)
彼らが得た西欧体験は、その後の我が国の歩みに極めて大きな影響を与えました。
明治維新後、欧米への留学、視察に出かける日本人は漸次増加し、彼らの西欧体験は明治およびそれ以降の政治、経済、文化等を先導していく動力源となり、彼らの中からガイドとして就業可能な語学力、素養を具備した多数の人材が輩出したであろうことは容易に推察可能です。
第2節 ガイド業務に対する需要の発生とその供給源
我が国の開国によって海外から人と物が急速に入り込んできました。
その入口となったのが開港・開市場です。
ペリーの浦賀来航の翌年、嘉永7年(1854),神奈川で結ばれた日米和親条約において下田、箱館(明治2年以降、函館)の開港、開市場における外国人の遊歩区域そのほかが取り決められ、さらに安政5年(1858)日米修好条約が締結され、下田,箱館に加えて神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港および江戸、大坂の開市が取り決められました。
開港場には外国人居留地を設けることになり、そこでの外国人の建物購入および建築等による「居留」が認められました。
遊歩区域は原則として10里四方(約1600平方キロメートル)以内とされ、一方、開市場では商用のための一時的滞在、家屋の賃借すなわち「逗留」が認められ、この日米間の条約をモデルとして、ロシア、オランダ、フランスとの間にも修好通商条約が締結されました。
*鹿鳴館の隣に出現したグランドホテル
我が国においてガイド業務の需要の発生は、来訪外客が宿泊するホテルからまず発生しました。
そのようなホテルとして首都東京において、最高、最大なものとしては帝国ホテルがありました。
帝国ホテルは明治23年(1890)11月3日にほぼ現在の場所において開業しましたが、これは我が国の国際観光において新時代の幕開けを告げる画期的な意義を示すものでした。
この年は、日本を揺るがせたペリーの黒船来航から37年、江戸が東京と改称されてから22年、欧化主義のシンボルである鹿鳴館ができてから7年でした。
ホテル産業は、「接客を通じて 'Hospitality' を提供することによって付加価値を生産する産業である」と定義されていますが、この接客とは広義においてはその宿泊客に対してあらゆる便宜を提供することであり、その中には料理、飲食需要はもとより洗濯物の処理や買い物案内や観光地の紹介等が含まれており、外国人客に対しては商用の通訳や国情全般についての説明、名所、旧跡への旅行案内即ちガイド業務をも含むものであって、極めて重要なものです。
それゆえ、明治期における帝国ホテルの英文広告では、ホテルには"skilled staff and guide"がいる旨の表示がなされていました。
*横浜に集中した初期のホテル
明治初年(1868)から長く隆盛を続けた横浜の代表的なホテルとしては、横浜のグランドホテルが有名です。
しかし、明治10年代の終わり頃までに訪日した外国の要人たちは横浜のホテルに宿泊せず、旧幕府の施設だった延遼館、寺院、旧本陣などを宿所としていました。
*リゾート地のホテル
明治初年(1868)から訪日外国人に利用されたリゾート宿泊施設があり、そこでは当然、ガイドの需要があり,その業務になんとか対応可能な人材がそれなりに存在していたであろうことが推測されます。
日光金谷ホテルは、この地を訪れ宿泊したヘボン博士の指導で明治6年に夏だけカッテージインとして営業するようになったのが始まりで、明治26年に日光金谷ホテル(客室数 30)として開業し、その後増築を重ね、我が国の代表的なリゾートホテルとしての地位を確立し、訪日外国人客が多数宿泊しました。
同ホテルには東照宮をはじめとする名所旧跡を専門に案内するホテル専属のガイドがいました。
これは需要が中断した一時期を除き戦後に国際観光が復興してから昭和30年代迄は存在していましたが、個人客でも東京からの日帰りツアーや団体旅行が盛んになるにつれて需要が減り自然に消滅してしまいました。
また箱根宮ノ下の奈良屋は、幕末のころから、箱根を訪れる外国人が投宿した和風旅館であり、やがて外国人向けの設備も整えた洋館を新築して、奈良屋ホテルと称して外国人客誘致に力を注ぎました。
同じく箱根宮ノ下に明治11年に開業した富士屋ホテルは、当初から外国人客専用ホテルでした。
第3節 近代ツーリズムの幕開け、喜賓会および外航定期航路の創設
*喜賓会(The Welcome Society of Japan)の創設、活動とその意義
フランスの作家ジュール・ヴェルヌが「80日間世界一週」を書いたのが1783年でした。
広く世界的に愛読者を得たこの作品は、疑いもなく当時の時代精神を先取り、反映していました。
ヨーロッパでは産業革命、交通革命(汽車、汽船の発明)、通信の発達によって所得の増加、富の蓄積が進み、また時間的、空間的距離が短縮されつつあったのでした。
それを背景に、資本が海外市場に進出するに伴い、外交あるいは商用の海外旅行が増え、また探査、観光を目的とする海外への旅行も促進され、世界を一周する「漫遊者、globe-trotter」たちが出現しました。
英国国内で1841年(天保12年)に初めて団体旅行斡旋を成功させたトーマス・クック社は、その後ヨーロッパ周遊、米国旅行と行き先を拡大し、1872年に初めて世界一周旅行を斡旋しました。
アメリカでもアメリカン・エキスプレス社が1875年に旅行業務を開始し、19世紀の終わり頃には、欧米では国際観光は顕著な現象となっていました。
その近代ツーリズムの波は、日本にも打ち寄せようとしていました。
明治期の財界人の中で、近代国際ツーリズムの波音を最も確かに聞き取っていた一人に益田孝がいました。
彼は三井物産社長として約8ヶ月にわたり欧米を回り、帰国直後の明治20年(1887)11月25日、東京商工会でおこなった演説の中でフランスの観光業に注目すべき旨の発言をしています。
そして翌21年1月には、東京商工会の議事として「外国人接待協会設立の件」を提案しました。
このように益田孝が提案した「外国人接待協会」は、我が国初の外国人客誘致機関である「喜賓会」の設立として実を結ぶことになりました。
この「喜賓」とは、詩経小雅篇のなかの「我有嘉賓 中心喜之」からとられ賓客を心から喜ぶ、との意が込められていました。
それは当時の外国人客は、商用の客を別とすれば貴族など上流階級が多かったからです。
その設立の目的は「我が国、山河風光の秀、美術工芸の妙、夙に海外の賞賛する所なり、万里来遊の紳士淑女は日に月に多きを加ふるも之を待遇する施設備わらず、旅客をして失望せしむること尠からざるを遺憾とし、同志深く之を慨し遠来の士女を歓待し行旅の快楽、観光の便利を享受せしめ、間接には彼我の交際を親密にし貿易の発達を助成するを以て目的とす」とされていました。
その綱領は、
1.旅館の営業者に向って、設備改善の方法を勧告する事
1.善良なる案内者を監督奨励する事(ここにガイドが正式に登場することは意義あることです)
1.勝地、旧跡、公私建築物、学校、庭園、製造工場の観覧視察上の便宜を図る事
1.来遊者を歓待し又我邦貴顕紳士に紹介の労を執る事
1.完全なる案内書及び案内地図類を刊行する事
喜賓会は出版物(英文日本案内書、案内地図及び旅行方案書など毎年数万部)の発行も行い、また実地に外国人客を案内する専業者であるガイドを「監督、奨励」しました。
外国人客に対する旅行ガイドは、すでに明治10年代初期から需要がけっこうあり、我が国最初のガイド組合である「開誘社」が明治12年(1979)に結成されていました。
喜賓会ができてからは、例えばマレー「日本旅行案内」第6版(1901年)に掲載された開誘社の広告には、開誘社は「The Japan Welcome Society の監督下にある有資格ガイド協会」であり、22年の歴史をもち、横浜と神戸に事務所がある、としています。
当時のガイド料は1日2円50銭(1〜2人、3人以上は一人増える毎に50銭増)で、横浜に27人(他にアシスタント9人)、神戸13人(同2人)、京都3人のガイドの名前を掲載していました。
本会の設立は、明治26年(1893)3月であり、その事務所を帝国ホテルに設け、幹事長には明治時代の実業界に重きをなした、渋沢栄一が就任しています。
その他の幹事には蜂須賀侯爵、フランス公使等を務めた国際経験豊富な人材をはじめ、大倉喜八郎や益田孝等の財界の大物を連ねていました。
評議員の中には、外務省顧問の H.W.ソン、ジャパン・メール主筆の J.R.ブリンクリーなど、条約改正に向けて日本の力になっている外国人も含まれていました。
なお、ここで特筆すべきことは、この条約改正問題の解決は、当時の国民的な悲願であり、世論は沸き立っており、西欧先進諸国から同権、対等と認められることが、当時の全日本人の切望であり要求だったのです。
なお、「日本ホテル略史」によれば前述の開誘社とは別に明治30年に東洋通弁協会というガイドの団体ができています。
ガイドに対する需要が明治30年代に入っていよいよ増えてきたことが窺えます。
それに伴ってガイドの質の問題が次第に表面化し、これはホテル業界とも密接な関係をもっているだけに明治40年前後には両業界にとって大きな問題となりました。
その一つの解決策として明治40年(1907)に内務省による「案内業者取締規則」が制定されました。
これについては別に記述します。
喜賓会が設立された当時、日本にやって来た「漫遊者」たちはどのような観光をしたのか、その平均的な姿を調べてみると以下のようです。
その頃我が国に来遊する外客は、毎年七,八千人位で観光地域は大概、北は仙台、松島より南は瀬戸内海、厳島まで、その滞在期間は長くて一ヶ月、短きは一週間程であり、ただ寄港地付近を観光するだけの者もおり、当時の金額で一人、1、300円位を費消するから少なくとも10、000万円は我が国の現金勘定が殖えるので、これを座貿易と称していたとのことです。
喜賓会は営利を目的とせず、その運営は会費および有力企業等からの寄付金で賄われ、或いは宮内省からの御下賜金を受けたりしていました。
明治45年3月、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(幾つかの名称変遷を経た後の(財)日本交通公社)の誕生に伴い、喜賓会はこれにその使命を譲ることになり、設立から約20年を経た大正3年3月に解散しました。
*我が国の外航定期航路の創設とその発展
ガイドを必要とする来訪外客は、我が国へはすべて海路をはるばるとやってきたわけですが、特に我が国が、日清、日露の両戦争に勝利して、一躍世界の大国の仲間入りを果たし、欧米諸国の注目を浴びることになり、更にマルコポーロによって紹介されて以来、その神秘性が魅力となり,世界漫遊者たちの重要な目的地になりました。
19世紀の中頃は、我が国のみならずアジア諸国が欧米列強によって開国を迫られ、日本以外にはタイ国のみがその巧妙な外交政策の結果として独立国として残りましたがそれ以外のアジア諸国は、イギリス、フランス、オランダ等の欧米列強の世界支配体制の中に組み込まれていきました。
このような世界情勢から、欧米列強は海運業に力を注ぎ、我が国も同様にそれに対抗すべく政府の全面的な支援を受けて激烈な国際競争に参入しました。
明治初期には、遠洋航路はもちろん我が国周辺の近海航路も殆どアメリカの海運会社が制圧していました。
諸外国から我が国への遠洋定期航路では、明治3年(1870)にアメリカの太平洋郵船(Pacific Mail)がサンフランシスコから横浜―神戸―上海間の定期航路を開設し、横浜、神戸はその中間寄港地となり、世界一周ルートの一点となりました。
同様にカナダからは、1886年にカナダ太平洋鉄道会社(Canadian Pacific Railway Company)がバンクーバーから横浜、香港へ向けての定期航路を開設しました。
イギリス本国からは東洋はもとより、世界各地の植民地に向けて、巨大な海運会社である P & O(Peninsula & Oriental Steamship Company)が手広く定期航路を開設していました。
それらに対抗するために、我が国の新政府は強力な外航定期航路創設の育成策を採りました。
これは必然的に、我が国の国際貿易はもとより、訪日外国人客誘致というホテル業界それに付随してガイド業界にとっても極めて有意義な政策でした。
明治8年(1875)我が国最初の外航定期航路が政府の命で三菱商会(直後に三菱汽船会社、ついで郵便汽船三菱会社、これが明治18年に協同運輸会社と合併して日本郵船会社となり、当時既にその所有船舶数は58隻でした)が横浜―上海間で運航を開始しました。
その後、日本郵船は、明治19年に長崎―天津航路、明治22年に神戸―マニラ航路の開設等を果たし、更に日清戦争(明治27、28年)の軍需輸送で経営基盤を強化し、明治29年に欧州航路、アメリカのシャトル航路、オーストラリア航路などを相次いで開設しました。
そして日露戦争(明治37,38年)による更なる経営基盤の強化,我が国領土の拡大で,日本の海運業は目覚しい海外進出を果たしましたが、それとともに来訪外客も飛躍的に増加し、ガイド業界にも恩恵をもたらしたのでした。
*案内業者取締規則の制定(明治40年7月,1907年 内務省令第21号)
制定当時の時代背景とその制定理由
幕末の開港以来、ガイド業務は必然的に発生しましたが、これに対応可能な人材は当時としてはごく少数であり、その対応能力や人材の資質にはかなりのばらつきがありました。
明治初期の激動期を経過して、社会が安定し、我が国への来訪外客が漸次増加し、ガイド業務の需要も増加し、それに伴ってガイドの人数もこれまた増加しました。しかし、明治末期になっても公的には何の規制もなかったために、いろいろな問題が発生し、関連業界を悩ます事態の発生が見受けられるようになりました。
例えば、ガイド能力の不足のために顧客からの苦情とか、ホテルとか土産物店に不当な影響力を行使して、不当な要求をするなど、ガイドの能力,資質、品格等が問われる問題です。
喜賓会のような外客接遇、斡旋機関がその業務の一環としてガイドへの一応の指導、監督の指針を示していたことは前述しましたが、これとて強制力がある公的なものではありませんでした。
その具体的な解決策として、我が国の国家権力による行政上の対応策として採られたものがこの省令の制定、実施でした。
その内容は、ガイドを業としようとする者は、地方長官に願い出て、免許を受けなければならなくなったことです(同規則第1条)。
なお、ここで’業とする’とは、ある行為を継続的、反復的に行うことを意味し、’免許’とは一般的に禁止されている行為を、特別に解除してそれを許可することです。
具体的に分かり易い事例としては、自動車の運転免許があります。自動車を公道で運転することは、危険なため一般的に禁止されていますが、一定の試験に合格して、技能や交通法規の知識があると証明された者には、その運転を許可することです。
お粗末な人物が、ガイド業務を十分な知識、技能もなく勝手にやることは、来訪外客に対して、たんに失礼であるのみならず、いろいろな見地から日本の国益を害することは容易に理解可能です。
そして地方長官(現在の都道府県知事に相当)は試験を実施しその合格者に免許を交付しました(同規則第2条)。
この地方長官は全てではなく、主として当時のガイド需要が発生して、それに対応可能な主要地であった道府県だけであり、東京では府知事ではなく特別に警視総監でした、それゆえガイド試験は警視庁が実施し、その免許証の表紙にはいかめしい警察の徽章が印刷されており、戦後も失効することなく有効だったため、昭和20年代後半から30年前期頃迄はこの免許証を所有していた元気なガイドがまだ活躍していました。その他は、京都府知事、神奈川県知事、兵庫県知事、長崎県知事、北海道長官に権限が委譲され、それら各地の警察が免許証の交付を行いました。
この免許証は、交付された道府県だけではなく全国版として有効でした。
なお、試験科目は、人物考査と外国語,日本地理、日本歴史でした(同規則第3条)。
同規則は、太平洋戦争後、昭和22年12月31日(1947年)内務省解体により廃止されました。
それゆえ、それ以後、昭和24年6月15日に新たに省令から法律へと格上げされた通訳案内業法が制定、実施されるまでは、取締法規が存在せず、自由な営業が認められていたわけですが、実際には未だ国際観光は再開されておらず、当時の占領軍の将兵及びその家族の国内旅行があっただけでした。
通訳案内業法については、第2章にて記述します。
*日本ホテル協会の発足
明治42年(1909)6月16日 帝国ホテルにおいて開催
当時、ガイド業務が発生し、基本的にはその需要の殆ど全てを依存していた所は、来訪外客が宿泊するホテルでした。
他には、喜賓会を別にすると在日の大,公使館等の外交公館や外国人のいる貿易商社等があっただけであり、現在のようなインバウンドを取り扱う旅行業者は存在していませんでした。
明治32年(1899)7月、我が国民の悲願であった条約改正が実現し、長年にわたり屈辱的であった治外法権が撤廃され、我が国は条約締結各国と同等の立場となり、外国人は内地旅行および居住の自由を得て、従来のようにその都度の許可を必要としなくなりました。
これは、ホテル業界はもとより来訪外客接遇に密接に関係していたガイド業界にとっても大いに歓迎すべきことでした。
日露戦争の勝利は、極東の島国日本への興味を高め、訪日外客が顕著に増加してきました。
これは戦争中の明治38年からすでに増え始めていたとのことですので、現在の常識では一寸考えられないことです。
日本ホテル略史によれば、戦争が終結した翌39年には訪日外客数は25、353人で、前年より8、823人増(53%)だったとのことです。
そのため当時の「萬朝報」によれば「多少洋風の設備のある宿屋は大抵満員の盛況を呈す」状況となり、帝国ホテルにおいても満室のためやむなく宿泊を謝絶するケースが相次いだとのことです。
横浜に寄港したものの、横浜、東京に泊まれるホテルがなく、やむなくそのまま帰国してしまうケースも増えていたとのことでした。
その他、ホテル不足のために滞在日数の短縮を余儀なくされたり、不快の念を抱いて帰国したりした者が相当数いたり、風評により訪日観光を見送ることにした者もこれまた多数いたために、40年には反動的に訪日外客数が減少したとのことでした。
しかし、それにもかかわらず、日露戦争を契機とした訪日外客増加の趨勢に変化はなく、そのためにホテル業界としては、訪日外客収容力をはじめ全般的な受け入れ態勢の整備を検討する必要に迫られました。
その結果、ホテル業界を巡って様々な動きが活発になり、いくつもの紆余曲折を経て、明治42年6月16日に帝国ホテルにおいて、横浜グランドホテル社長C.H.ホールの提唱で「ホテル業者会議」が開催され、我が国の主要ホテルの代表者が出席し、当初は「日本ホテル組合」として発足しましたが、後に内容を整備し、改称して「日本ホテル協会」となり、今日まで継続して一流ホテルの団体として存在しています。
*ジャパン・ツーリスト・ビューロー(J.T.B.)の設立
明治45年(1912年)
来訪外客の誘致、接遇を目的としたジャパン・ツーリスト・ビューロー(J.T.B.)設立の経緯については、以下の昭和55年発行の(総理府審議室編「観光行政100年と観光政策審議会30年の歩み」)における説明が最も客観的、具体的に記述されています。
それによれば、「明治の末頃には、南満州鉄道の経営、南樺太の領有、日韓併合等極東における我が国の版図は急速に拡大し、これに伴ってアジアのみならず欧米においても我が国を批判する声が高まってきた。こうした情勢の中にあって、一つには国際親善と外貨の獲得のため、更には新領土の経営のために当時の鉄道院を中心に財界、交通、ホテル等関係業界が協力して、対外宣伝、外客接遇、旅行斡旋等のための機関の設立を促進したのである」。
この J.T.B. 設立の2年前、明治43年に訪日したアメリカのジャパン・ソサエテイのリンゼイ・ラッセル会頭は、「資源に乏しい日本経済を繁栄させるには、恵まれた自然の景観を海外に大いに宣伝し、外客を誘致して外貨獲得を図るべきである。それにはまず外客誘致機関を設けることだろう」と、述べていました。
我が国の観光関連業界にも、むろん同様な考えの持ち主はかなり存在しており、そして J.T.B. の設立に至ったわけでした。
このジャパン・ツーリスト・ビューローの邦語名は当初、「日本旅行協会」とされていたようですが、これが幾多の変遷を遂げた後に1945年、終戦の年に「財団法人日本交通公社」と改称し、更に、1963年にその営業部門を分離して、それを株式会社日本交通公社とし、その名称を変更して現在の株式会社ジェイテイービーとなっています、以後本概説では(株)JTBと記します。
ガイドにとってこの(株)JTBは密接な関係があり、極めて重要な存在ですがこれについては、第2章にて記述します。